映画研究塾トップページへ
永遠(とは)の語らい(2003)マノエル・デ・オリヴェイラ~2006.6.23
サスペンスとショックとは両立しない。ヒッチコックは「サボタージュ」(36)で、何も知らない子供に箱を持たせ、その中身が爆弾であることを観客に知らしめた上で(この時点でサスペンスが発生)、その爆弾を爆発させてしまい(ショックの発生)、子供を死なせたことで観客から非難を受けた経験があり、自らもそれを「大失敗」と認めている(トリュフォー「映画術」、植草甚一「ヒッチコック万歳」等)。「サボタージュ」の問題は、子供を殺したことよりも、箱の中身が爆弾である事を予め観客に知らせたことに尽きている。それにより「子供が危ない」という「サスペンス」が発生し、当然観客はサスペンスのお約束事である「救出」を信じて心地良い恐怖に浸りながら顛末を見守る訳だが、ここで爆発という「ショック」により観客は裏切られ怒りに震える。子供をいきなり殺すだけなら(ショック)、「人道上悪質」ではあっても「映画的裏切り」にはならなかった。これが映画史上非常に有名な事件である所以は、人道ではなく映画の公式を裏切った点に尽きているのだ。オリベイラがこの事件を知らないことはまず有り得ない。サスペンスとショックとは両立しないのである。勿論こうした公式は、見せないことで発生する「サスペンス」というジャンルを失った「ショック」全盛の現代映画においては半ば崩れ去っているが、しかしここでオリベイラは、敢えて爆弾の存在を我々に知らしめ(この時点でサスペンス発生)、このドキュメンタリータッチの映画には明らかに不自然とも言える古典的救出劇のサスペンスを煽った後で、勿論反則と知りつつ→「ズドン(ショック)」とやったのである。現在世界最高の映画作家による映画公式への反逆を映画的に肌で感じた時、我々はこの作品が、人類の平和を願ったオリベイラ96歳の「遺言」などという生易しいものではなく、映画そのものに対するある種の警告であるのかと襟を正さざるを得ないのだ。左から斜め上へと流れる上昇の構図の数々。切られては流れ続ける波。ロケーションでは見事に直射日光を避けて、逆光や横からの光で顔にしっとりと陰影を落とし素肌を覆わせている。アルメンドロスは生きていたのか、、、
映画研究塾 2006年6月23日